自殺する人間の強弱に関わらず弱さは罪ではない.だが責任は取らされる.

こういう話題が出ると,事実より信念のぶつかり合いといった様相になるなと思った.

「自殺」に関して〈個人〉と〈社会〉の両側面から考えたい
http://yamayoshi.hatenablog.com/entry/2014/05/10/000117

自殺する人は弱い
http://grshb.hatenablog.com/entry/20140510/1399711443


これに絡む信念について書く.



私は弱い人間で,自殺したいと思ったことがあるし,今も自殺することを時々考える.


弱さとひとくちに言っても色々あるが,私の弱さというのは自分の意見や好みを主張できない弱さだ.
私は自分の意見や好みが他人に受け入れられるとあまり信じていないし,
自分の意見を主張することで軋轢が生まれるくらいなら,主張を引っ込めたいと思っている.
自分が正しいと思ったことでも,責任をとってまでそれを主張するかと言われれば間違いなくNOである.
なるべくなら,他人の求めに応じるだけの機械になれればいいと思っているし,
私よりちゃんと求めに応じて働ける存在がいたら,私の代わりにそいつが生きるべきなんだと思う.


ただ,従っているのは苦しい.なので能率は上がらず,それが劣等感を加速させる.
従っているのは苦しいのだが,かといって自分の意見を出すのも苦しい.
ジレンマである.そうしたジレンマに直面するのはつらいし,
ジレンマのどっちを選んでも,つまり,言うなりになっても,意見を言ってもつらいので,私は人間嫌いだ.


人間嫌いなのだが,一方で寂しいとも思う.
便利であるかぎりに必要とされるのではなく,無条件に必要とされたい,とも思う.
だが,そういう気持ちを押し出して引かれるのはつらい.これもジレンマである.
取りうる行動は3つで,

1つ目,感じのよい人間として振る舞ってストレスを貯め,
やっぱり便利であるかぎりにおいて必要なだけの人間なんだという気持ちを強化する

2つ目,距離を詰めて引かれる

3つ目,他人から離れる

どれもつらい.


こうしたジレンマ状況をどうにかするのは,理屈で言えば簡単で,
失敗してもいいから意見を出していけばよいはずである.
日本に人間は1億人いるわけで,その何人かから永遠に嫌われたとしても,
そこで得た教訓を次に活かすとか,気の合わない人は諦めるとかしていけば,
そのうち自分を出すこともできるようになるだろうし,
損得抜きで必要としてくれる人に出会うこともあるだろう.
これは確率の問題でしかない.コインの表が一回でも出ればいい確率の問題だ.


あるいは,「自分は必要ない人間なんだ」という思い込みが強いのが問題なので,
精神科なりカウンセリングなりに行って,まともな(一般的な)思考ができるように
薬なり訓練なりを重ねていけばいい.それでも自殺したくなった方はメンタルへ!


と,こんな感じで対策がはっきりしていても,私はそれを実行に移せないくらい弱い.


今,私はそれほど滅茶苦茶に深刻な悩みを持っているわけではない.それなりに暮らせている.
だから,今の生活よりもっとつらいことをしたくない,と思う.
ゆでガエルの論法なのだが,実際つらいのだからやりたくない.
人に合うと頭が働かなくなるとか,外にでる気力が湧かなくなるとか,
無理やり人と関わると吐かずにはいられなくなるとか,
そんな風に現状維持が現状を変えることよりつらくなったら何かやり始めるだろう.


精神科とかなら何もつらいことないじゃないかと思うかもしれないが,
「精神科とかカウンセリングを必要とするくらい,自分はダメな人間なんだ」
ということを認めるのがつらい.
私は弱い人間だが,どーにかこーにかここまでやってきた.
そのことをそれなりに誇っている.つらい思いをしてきたんだ,と思っている.
それを変えなくてはいけないとなったら,私は,
一時的にせよ,何も誇れるものがなくなってしまう.
つらい思いとかいうのは全部無駄だったんだという気持ちになってしまう.
それがつらい.



私はそんな感じで弱い人間で,もう生きているのが面倒で死にたいと思ったことがあるが,
死ぬのが怖かったのと,死んだあとの後処理をする家族のことを考えると死ねなかった.
別に家族が好きとかではなくて,家族の中で自分が果たしている役割を自殺という形で放り出した時に,
家族が受けるだろう精神的ショックを考えると,
「そんな精神的ショックを与える人間なんて居ないほうがよかった.必要としたのが間違いだった」
ということになりはしないか,と思えてつらかった.
打算からでも必要としてくれる人間を裏切るのはつらい.


なので,私は自殺というより,「自分が生まれてこなかったことにできないものか」とよく考えた.
「私より上手くやれて,そのことに疑問を感じない人に後を引き継いでほしい」ともよく考えた.



そんな感じで私は虚弱的な意味でも,意志薄弱で怠惰という意味でも弱い.
そのことでずいぶん自分を責めたのだが,そのときにこう考えた.
果たしてそれは罪だろうか.弱いことは悪いことだろうか.


罪ではない,と私は思う.
それはそのように生まれついたとか,そのように育たざるを得なかったから罪でないとか,
単に怠惰だから罪でないとか,そういう理由ではない.
ここでいう罪とは,神なり永遠普遍の善なりというものに照らしての罪,
宗教的な意味での,許されざる罪かということだ.
罪ではない,と私は思う.
神なり永遠普遍の善なりというものが存在しない,と思っているからだ.
私はただ弱いだけで,そこに宗教的な価値の上下はない.
だから,「弱いことは悪いことだ」という主張は,滅茶苦茶だと私は思う.そう言うお前は神じゃない,と思う.


ただ,責任があるかと言われれば,あるだろうと思う.
責任があるとかないとか,責任を取る取らないというのは,人間同士の関係のことだ.
そして,自分がやったことには自分が責任を持たなくてはならない,という漠然とした約束の上に
今の社会は成り立っている.そこに逆らうことは,社会に生きる人全員の心を変えない限り出来ない.
つまり,たぶん私が死ぬまでくらいは,私は自分のやったこと,やらなかったことに責任を取らなくてはならない.

永遠の基準にもとづくものではない責任は,場合や時代,雰囲気により重くなったり軽くなったりする.
どの程度の重さが適当であるか,ということについては,私は分からない.
ただ,責任を取らなくてはいけないだろうということははっきりしている.


責任をたくさん取らされるとき,しばしば「それが悪いから」と理由付けされるように思う.
しかし,それは,「都合が悪い」という意味だろう.「倫理的に悪い」わけではない.
みんなに都合が悪いから,お前が責任を取れと言われる.そういうことだろうと思う.


自殺する人を助けるべきかとか,自殺しそうな人を救うべきかという問題も,
やっぱり生きている人間の都合で決められるのだと思う.
そして,どの辺を落とし所にするかには議論の余地があり,
落とし所が良ければ救われる人がいるだろう,と思う.

自説を通したいと思えば,なるべく多くの人を自説に賛成させる必要がある.
そのはずなのだが,「お前の気持ちは分からない.私はこう考える」といって,
自分の感じるところだけを書くのは,自説を通したいんじゃなく,議論をしたいんじゃなく,
ただ言いっぱなしに言いたいだけなのだろうなと思った.


弱さは罪ではない.
だが責任は取らされる.
責任の重さは人が決めるものだが,
自分の信じる善悪だけを言いっぱなしにして,
交渉とか妥協の方に持っていくことがないのは残念だ.
言いっぱなしに言っておく.